6月前半に読んでいない本

読んだ本について書こうとすると、内容をしっかりと紹介したい、できれば引用を交えつつ独自の見解を付け加えたい、要するに書評=批評をしたいという気分になってしまい、結局はめんどくさがって何も書かないということに終わりかねない。読んでいない本についてであれば、内容把握が適当でも、いいかげんなことや的はずれなことを言っても、なにしろ読んでいないというエクスキューズがあるのだから気が楽だ。なお、『読んでいない本について堂々と語る方法』はずっと気になっているがまだ入手できていない。

I.フレッチャー『だれが、いばら姫を起こしたのか』(ちくま文庫、1991年[原著1972年])
高橋健二グリム兄弟』(新潮文庫、原著1968年)
先日、池内紀訳『グリム童話』にはまってしまった。池内推薦のドイツの政治哲学者によるユーモアたっぷりのグリム童話論と、童話蒐集や民話研究だけでなく、比較言語学や辞書編纂でも輝かしい功績をあげたという点において、19世紀を考えるうえで非常に興味深いグリム兄弟の伝記を購入。

橋本治いま私たちが考えるべきこと』(新潮文庫、2007年)、『ちゃんと話すための敬語の本』(ちくまプリマー新書、2005年)、『「三島由紀夫」とは、なにものだったのか』(新潮文庫、2005年)
橋本治のエッセイは古本屋で持っていないものを見つけるとほぼすべて買っている。二村ヒトシの『すべてはモテるためである』経由で『恋愛論』のとくに有吉佐和子論に感銘を受け(すぐれた批評は論じられている本を読んだことがなくても面白い)、『宗教なんかこわくない!』や『これで古典がよくわかる』など読み継ぐうちにすっかりファンになってしまった。『虹のヲルゴオル』は今まで読んだ映画評論のなかで一番好きな本。

河口慧海チベット旅行記 抄』(中公文庫Biblio、2004年[原著1904年]
明治時代に仏典を求めてチベットまで旅をした坊さんの旅行記。中沢新一とか荒俣宏とかでこの本の存在を知って、別の場所でもちらほら目にしていたので購入。そういえばグリーンブラットの『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』も積読のままだった。

古川日出男LOVE』(新潮文庫、2010年)
現代文学を読もうと思っているのだが、誰がいいのか全然わからないので、文学賞を取った作家の本をとりあえず手にとってみたりする(本書は2006年三島由紀夫賞受賞)。小説だから書き出しを。
「おれはきみのことを知っている。
きみの名前はカナシーという。椎名可奈、それが中学時代からシーカナ(椎・可奈)と呼ばれるようになって、東京に来てからカナシーになった」
裏表紙を見ると「青春群像小説の傑作」とある。目次を眺めつつパラパラめくってみると、章ごとにことなる人物の物語となっているらしい(どれも「きみは」と二人称で語られているようだ)。が、比較的長めの章と章との幕間のような数頁しかない4章、すなわち季節と地名を含んだ「秋、品川、ニーサン」、「冬、白金、ルナコ」、「春、目黒、ハイアン」、「夏、五反田、ミノワ」では、それぞれの街の地誌学的記述とそこに住まう猫の話が、三人称で語られている。
こういう構成感覚をもったフィクションはわりと好きな方なので、ちょっと期待を持って各章の書き出しを確認してみると――
「あたしはきみのことを忘れていない」「僕はきみのことを憎んでいない」「まずはおれからいこう」「おれはきみのことを数えていない」――語られる人物だけではなくて、語り手も別々の人物らしい。
これら語り手ははっきりした輪郭を持った存在なのだろうか(他の章で語られる人物?)と疑問に思いつつあとがきを盗み読みしてみると、「ここには秋から冬、春、夏までの十ヶ月間の東京をスケッチした」という言葉があった。拾い読みからもこの小説が東京の具体的な「街」を重視していることは明白だったが、してみると、語り手は東京の「街」なのではないか?
この予想は偶然目に入ってしまった最終頁で否定されてしまったが、初めから読み通してみたらその否定がまた覆るかもしれないという予感も少しある。

ロナルド・ピアソール『シャーロック・ホームズの生れた家』(河出文庫、1990年[原著1977年])
原題を素直に訳すと『コナン・ドイル―伝記的解答』。文学史や同時代の文化史への目配りのきいたオーソドックスなドイルの伝記のようだ。気になる章題を挙げると「カトリック教育」、「ボーア戦争」、「第一次世界大戦」、「妖精たちがやって来た」。訳者のひとり島弘之は英文学の領域でオカルト関連の面白い仕事をしていたのだが、最近まったく名前を見ない。

樺山紘一世界史の知88』(新書館、1995年)
著者の名前で購入。高校生用世界史の教科書の改訂版とのこと。むかしTwitter高校世界史知識のインストールとかいうのが流行ったときに、山川の世界史を三読くらいしたのはのちのち結構役立った。それ以来通史は読んでいないので久々に読んでみようか。

清水勲四コマ漫画―北斎から「萌え」まで』(岩波新書、2009年)
文庫クセジュ読んでたっけ?と錯覚するようなストイックな文章にまず驚いた。通時的に作品と関連事項を淡々と記述してゆくという、文学史でこれをやられたらおそろしく退屈なスタイルだが、豊富な図版(4コマなので作品自体)に救われている。取り上げられる作品の夥しさや巻末の詳細な年表に研究者気質を見せつけられる思いだが、研究者とは集めたものに耽溺しない蒐集者のことだろうか?

澁澤龍彦をもとめて』(美術出版社、1994年)
『季刊みづゑ』1987年冬号の澁澤追悼特集の書籍化。種村季弘荒俣宏出口裕弘らによる追悼文=澁澤論が読ませる。四谷シモン、加納光於、横尾忠則金子國義ら芸術家の寄稿ページは、彼らの作品、追悼文、澁澤による作品への言及の引用のコラージュという巧みな構成が取られている。
白眉は篠山紀信撮影の澁澤邸宅(A4判がうれしい)。書斎の写真を舐めるように見て、思わず『書物の宇宙誌―澁澤龍彦蔵書目録』(国書刊行会、1996年)を注文してしまった。

ロイ・ポーター『啓蒙主義』(岩波書店、2004年[原著2001年])
最近入手した本のなかで最高の一冊。註釈付き文献表(annotated bibliography)と本文とのクロスレファレンスの妙。訳者は見市さん。
annotated bibliographyを偏愛する者として、本書序文で言及される、「二五〇ページにもおよぶ『文献解題』」を含むピーター・ゲイ『啓蒙主義の一解釈』(1966-69年)、これは是が非でも手に入れなければ。

山口昌男祝祭都市―象徴人類学的アプローチ』(岩波書店1984年)
英文学をやろうと思いたったときに高山宏にはまったのが運の尽きで、大学院浪人時代は英文学そっちのけで山口昌男や種村や澁澤から際限なく拡がる知の世界をふらふらしていた(この放浪癖は修士に入ってからも続き、そのせいで卒業が遅れた)。悩める知の探究者は『本の神話学』を一晩で一気読みをせよとは高山宏の至言。
ピーター・ゲイの名を知ったのも『本の神話学』で、「これを読んでいないと話にならない」と仰っていた富山先生は『快楽戦争―ブルジョワジーの経験』を、ルネサンスに興味を持った学生にはかならずこの本を薦めていた田中先生は『シュニッツラーの世紀―中流階級文化の成立1815‐1914』を訳している。
本書の魅力は、さまざまな都市についてなされる文学作品、映画、文化史の縦横無尽の引用にある。取り上げられるのは東京、ニューヨーク、ヴェネツィアプラハなどで、大部分は対話形式で書かれているが、前田愛との対談もある。熱を帯びた初期の著作と比することはできないが、自分の知らない面白いことがたくさんあると思わせてくれる山口の本はいつも愉しい。

青柳いづみこドビュッシー―想念のエクトプラズム』(中公文庫、2008年)
著者は現役ピアニストでありながらドビュッシー研究で博士号を取得し、軽妙なエッセイの書き手としても活躍する異彩。祖父は仏文学者の青柳瑞穂で、異端文学の偏愛者としても知る人ぞ知る存在である(『ユリイカ』や『幻想と怪奇』にも寄稿していた)。そんな人が「印象派ドビュッシー」という虚像を転覆すべく書いた評伝だから、面白くないわけがない。腰を据えてじっくりと読みたい本。

萱野稔人編『最新 日本言論知図』(東京書籍、2011年)
政治経済、医療、科学、教育、スポーツ、食、芸能・文化、サブカル……と、要する新聞やニュースのネタになるような150のトピックについて、代表的な論者の主張を図解した本。
現代日本社会を知るためにと思って買ったはいいが、記述の薄さと取り上げられる人物たちの小物さにゲンナリしてしまった。この汎用さが現代の主流文化なのだとある意味で感得し、ニュー・アカデミズムはよかったとつくづく思う。
馴染みのないトピックは読んでみるつもりではある。それにしても「言論」ということばを使う人たちは……。

池上英洋『かわいいルネサンス』(東京美術、2016年)
信頼できる美術史家の本なので購入。「かわいい」というテーマでルネサンス前後の作品を集めたオールカラーのビジュアル本。絵の解説はピンポイントかつ最小限に抑えられており、絵そのものを面白がってほしいというメッセージが伝わってくる。眺めていて幸福な気分になる。「坊や、いい飲みっぷりですね」というキャプションのついたグイド・レーニの『酔っぱらうバッカス』が最高。

Samuel P. Huntington, The Clash of Civilizations and the Remaking of the World Order (Touchstone, 1997)
国際とか名のつく学部にいたときに、退屈な授業でよく耳にした「文明の衝突」ということばにはうんざりしていた。読む必要はなかろうとずっと思ってきたのだが、原書を100円で見つけたときに学部時代が懐かしくなってしまったのか、魔が差して購入。いま、やはり読まなくてもいいんじゃないかと思いなおしている。文明論、国家論は文化を粗雑に扱う傾向があるので苦手だ。

木村陽二郎『原典による生命科学入門』(講談社学術文庫、1992年)
学術文庫の「原典による」シリーズは日本で数少ないオーソドックスなアンソロジーで何冊か手元にある。だが、この本は注文ミスで2冊同時に購入してしまった!
本書はアリストテレス、ハーヴェイ、デカルト、ベルナール、ラマルク、ダーウィン、メンデルらの原典からの抜粋を簡潔な解説とともに収録。科学書は19世紀中ごろあたりまでは教養のある読み手を想定して書かれており、実際に専門家以外の教養人にも読まれていた。だから昔の科学書はふつうに読めるし、同時代または後世の書き手との意外な照応を発見する愉しみがある。

長谷章久『江戸・東京歴史物語』(講談社学術文庫、2003年[原著1985年])
ここ一年ほどのあいだに何度か浅草に行く機会があったこともあり、歴史がわかれば東京はなかなか面白いのではないかと思うようになった。東京散歩なるものへの憧れもないわけではないので、江戸、東京関連の本をすこしずつ集めている(高山、種村論じるなかでいまいち馴染めなかった江戸というジャンルに親しみたいという気持ちもある)。
本書の著者は1918年生まれの国文学者。パラパラめくってみたかんじでは、読み物としても愉しめそうな一冊。

田辺保『フランス語はどんな言葉か』(講談社学術文庫、1997年[原書1969年]
フランス語をやろうと思って何度も挫折しているので、せめてフランス語に関するエッセイを読んで自分を慰めようと思うことがある。そのとき、フランス語にすこしでも親しむことができれば、次こそはフランス語学習が続くかもしれないという期待が一瞬心に浮かぶことはあるが、単語や活用表の暗記を避けては語学は身につかないことは、嫌というほど知っている。著者は1930年生まれのパスカルの専門家。

イアン・スチュアート『自然の中に隠された数学』(草思社、1996年[原著1995年])
チャールズ・サイフェ『異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』(ハヤカワ文庫NF、2008年[原著2000年]
IT業界に入ったので多少とも理系的な知についても知ったふうな口をきけるようになりたいと思い、一般向けの科学書や数学書を集め始めた。
前者は訳者あとがきによると、複雑系の理論への平易な入門書とのこと。なかなか気の利いた章題が多いのでいくつか拾っておく。「証明という名の織物」、「バイオリンからビデオへ」、「破れた対称性の美学」、「サイコロは神になれるか?」、「複雑系の単純さ」。帯をみると「カオスから複雑系まで」というコピーがあり、ニューアカを思い出す。いまは文系はふつう理系の本なんて読まないけれども、理解の程度や質は脇に置くとして、理系の概念を面白がっていた時代はやはり豊かだったなあと思う。
とかいいつつ、ハヤカワ文庫の「数理を愉しむ」シリーズが安定して良書を世に送り続けていることを考えると、たんに自分が無知なだけなのだとも思う。
『異端の数ゼロ』はゼロの観念史ともいうべき本で楽しみである。ちなみに、本家本元の『観念史事典』には「数」「文化史のなかの数学」、「無限」という項目はあったが、ゼロへの詳しい言及はなかった。(新版ではどうか知らないし高いから手に入りそうにない――と思ったらここで読めた。いちいち調べないけど)。

Andrea Levy, Every Light in the House Burnin' (Review, 1994)
オレンジ賞やウィットブレッド賞を受賞したSmall Island(2004)の作者のデビュー作。戦後まもない英国にジャマイカから移民した父と母のもとに生まれた末娘Angelaを語り手とした自伝的小説。
父が乗船したとされる「Empire Windrush」を名著Oxford Companion to Black British History (2010)で引き直した。ジャマイカの新聞広告に£28 10s.イングランド行き300名の乗船募集が掲載され、非常に多くの応募があったこと、1948年5月24日に492人の乗客と6人の密航者を乗せてにジャマイカを出港したこの船が6月22日にロンドン東のTilburyに到着したこと、カリプソの雄Lord Kitchenerが'London is the Place for Me'をこの船旅のなかで書いたこと、誤解されているがカリブからの移民が劇的に増えたのは1955~61年であったこと(51年までは年1000人以下だったが61年には66000人)などを知る。続けてKitchenerの項を引くと、Lodon is~の楽観主義は長く続かず、'My Landlady'(1952)や'If You're Not White, You're Black'(1953)など、次第に移民が抱える問題を歌詞に載せるようになったとある。
新しい本を買って以前買った本を読むとは変な話のように思えるが、読書がこういうふうに進むことは珍しくない。

ジョン・サザーランド『ヒースクリフは殺人犯か?』(みすず書房、1998年[原著1996年])
ヴィクトリア朝小説研究の泰斗が、オースティンからキプリングまで36篇の19世紀英文学作品について、些細だが重要な小説中の謎をテクスト自体からの傍証と文化史的知識を巧みに組み合わせて鮮やかな手つきで解読する。川口喬一の訳者あとがきが鋭い。ここで取り上げられている作品(すべてOxford World's Classicsとして刊行)はぜんぶ読まなきゃなあと思うが、トロロープが5作品も入っているから大変。そういえば、サザーランドは日本でいえば小池滋さんに当たるだろうか。

ユリイカ』「http://amzn.to/2ta9jnU=特集 スピルバーグ――映画の冒険は続く」(2008年7月号)
蓮實☓黒沢対談は以前抜粋で読んだが再読したい。加藤幹郎、石岡常治の論考も楽しみ。スピルバーグを好きになったことはないが、『ユリイカ』の映画に関する特集は見つけるとつい買ってしまう。

山田登世子メディア都市パリ』(ちくま学芸文庫、1995年[原著1991年])
元祖新聞王ジラルダン発行の大衆紙『プレス』に掲載された週刊コラム「パリ便り」(1836~48年)を補助線に、19世紀仏文学史の書き直しを試みた意欲作。読者に読みの快楽を与えようという気概が伝わってくるレトリカルな文体と構成を形容するには、前著の副題「誘惑のディスクール」ということばが相応しい。試しに本書における「パリ便り」の作者の紹介(28~36頁)を類似テーマを扱った標準的な論文と読み比べてみると、前者の圧倒的な筆力と洞察の鋭さと、後者のアカデミズムとフェミニズムに寄りかかった退屈さ、凡庸さとの対照がが浮き彫りになる。凡庸さといえば、以前鹿島茂とのバルザック対談本を読んだときには気づかなかったが、著者が蓮實的感性を持ち合わせていることには驚いた(本書解説も蓮實)。軽そうだと思って敬遠していたファッション本も読んでみようと思う。或る種の人にあっては軽さはラディカリズムをともなっている。

多少の漏れはあるが、先々週までに買った本のことをやっと書き終えた。
先週買った約30冊のことを書けるのはいつになるだろうか。

今日のひとこと:
「「美」のあらゆる相貌を、彼は意のままに結合する。或は次々に、或は同時に、要するに必要に応じて、彼は古典派、浪曼派、高踏派、象徴派、印象派、表現派、現実派、超現実派である。ここにあつては知性と感性、具体と抽象、特殊と普遍、――およそ想像し得る限りのあらゆる背反が、毫も互いに弱め合ふことなく、緊密不可分に統一され、調和されてゐる」
齋藤磯雄訳『ボオドレエル詩集』「後記」、p.207-8