6月前半に読んでいない本

読んだ本について書こうとすると、内容をしっかりと紹介したい、できれば引用を交えつつ独自の見解を付け加えたい、要するに書評=批評をしたいという気分になってしまい、結局はめんどくさがって何も書かないということに終わりかねない。読んでいない本についてであれば、内容把握が適当でも、いいかげんなことや的はずれなことを言っても、なにしろ読んでいないというエクスキューズがあるのだから気が楽だ。なお、『読んでいない本について堂々と語る方法』はずっと気になっているがまだ入手できていない。

I.フレッチャー『だれが、いばら姫を起こしたのか』(ちくま文庫、1991年[原著1972年])
高橋健二グリム兄弟』(新潮文庫、原著1968年)
先日、池内紀訳『グリム童話』にはまってしまった。池内推薦のドイツの政治哲学者によるユーモアたっぷりのグリム童話論と、童話蒐集や民話研究だけでなく、比較言語学や辞書編纂でも輝かしい功績をあげたという点において、19世紀を考えるうえで非常に興味深いグリム兄弟の伝記を購入。

橋本治いま私たちが考えるべきこと』(新潮文庫、2007年)、『ちゃんと話すための敬語の本』(ちくまプリマー新書、2005年)、『「三島由紀夫」とは、なにものだったのか』(新潮文庫、2005年)
橋本治のエッセイは古本屋で持っていないものを見つけるとほぼすべて買っている。二村ヒトシの『すべてはモテるためである』経由で『恋愛論』のとくに有吉佐和子論に感銘を受け(すぐれた批評は論じられている本を読んだことがなくても面白い)、『宗教なんかこわくない!』や『これで古典がよくわかる』など読み継ぐうちにすっかりファンになってしまった。『虹のヲルゴオル』は今まで読んだ映画評論のなかで一番好きな本。

河口慧海チベット旅行記 抄』(中公文庫Biblio、2004年[原著1904年]
明治時代に仏典を求めてチベットまで旅をした坊さんの旅行記。中沢新一とか荒俣宏とかでこの本の存在を知って、別の場所でもちらほら目にしていたので購入。そういえばグリーンブラットの『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』も積読のままだった。

古川日出男LOVE』(新潮文庫、2010年)
現代文学を読もうと思っているのだが、誰がいいのか全然わからないので、文学賞を取った作家の本をとりあえず手にとってみたりする(本書は2006年三島由紀夫賞受賞)。小説だから書き出しを。
「おれはきみのことを知っている。
きみの名前はカナシーという。椎名可奈、それが中学時代からシーカナ(椎・可奈)と呼ばれるようになって、東京に来てからカナシーになった」
裏表紙を見ると「青春群像小説の傑作」とある。目次を眺めつつパラパラめくってみると、章ごとにことなる人物の物語となっているらしい(どれも「きみは」と二人称で語られているようだ)。が、比較的長めの章と章との幕間のような数頁しかない4章、すなわち季節と地名を含んだ「秋、品川、ニーサン」、「冬、白金、ルナコ」、「春、目黒、ハイアン」、「夏、五反田、ミノワ」では、それぞれの街の地誌学的記述とそこに住まう猫の話が、三人称で語られている。
こういう構成感覚をもったフィクションはわりと好きな方なので、ちょっと期待を持って各章の書き出しを確認してみると――
「あたしはきみのことを忘れていない」「僕はきみのことを憎んでいない」「まずはおれからいこう」「おれはきみのことを数えていない」――語られる人物だけではなくて、語り手も別々の人物らしい。
これら語り手ははっきりした輪郭を持った存在なのだろうか(他の章で語られる人物?)と疑問に思いつつあとがきを盗み読みしてみると、「ここには秋から冬、春、夏までの十ヶ月間の東京をスケッチした」という言葉があった。拾い読みからもこの小説が東京の具体的な「街」を重視していることは明白だったが、してみると、語り手は東京の「街」なのではないか?
この予想は偶然目に入ってしまった最終頁で否定されてしまったが、初めから読み通してみたらその否定がまた覆るかもしれないという予感も少しある。

ロナルド・ピアソール『シャーロック・ホームズの生れた家』(河出文庫、1990年[原著1977年])
原題を素直に訳すと『コナン・ドイル―伝記的解答』。文学史や同時代の文化史への目配りのきいたオーソドックスなドイルの伝記のようだ。気になる章題を挙げると「カトリック教育」、「ボーア戦争」、「第一次世界大戦」、「妖精たちがやって来た」。訳者のひとり島弘之は英文学の領域でオカルト関連の面白い仕事をしていたのだが、最近まったく名前を見ない。

樺山紘一世界史の知88』(新書館、1995年)
著者の名前で購入。高校生用世界史の教科書の改訂版とのこと。むかしTwitter高校世界史知識のインストールとかいうのが流行ったときに、山川の世界史を三読くらいしたのはのちのち結構役立った。それ以来通史は読んでいないので久々に読んでみようか。

清水勲四コマ漫画―北斎から「萌え」まで』(岩波新書、2009年)
文庫クセジュ読んでたっけ?と錯覚するようなストイックな文章にまず驚いた。通時的に作品と関連事項を淡々と記述してゆくという、文学史でこれをやられたらおそろしく退屈なスタイルだが、豊富な図版(4コマなので作品自体)に救われている。取り上げられる作品の夥しさや巻末の詳細な年表に研究者気質を見せつけられる思いだが、研究者とは集めたものに耽溺しない蒐集者のことだろうか?

澁澤龍彦をもとめて』(美術出版社、1994年)
『季刊みづゑ』1987年冬号の澁澤追悼特集の書籍化。種村季弘荒俣宏出口裕弘らによる追悼文=澁澤論が読ませる。四谷シモン、加納光於、横尾忠則金子國義ら芸術家の寄稿ページは、彼らの作品、追悼文、澁澤による作品への言及の引用のコラージュという巧みな構成が取られている。
白眉は篠山紀信撮影の澁澤邸宅(A4判がうれしい)。書斎の写真を舐めるように見て、思わず『書物の宇宙誌―澁澤龍彦蔵書目録』(国書刊行会、1996年)を注文してしまった。

ロイ・ポーター『啓蒙主義』(岩波書店、2004年[原著2001年])
最近入手した本のなかで最高の一冊。註釈付き文献表(annotated bibliography)と本文とのクロスレファレンスの妙。訳者は見市さん。
annotated bibliographyを偏愛する者として、本書序文で言及される、「二五〇ページにもおよぶ『文献解題』」を含むピーター・ゲイ『啓蒙主義の一解釈』(1966-69年)、これは是が非でも手に入れなければ。

山口昌男祝祭都市―象徴人類学的アプローチ』(岩波書店1984年)
英文学をやろうと思いたったときに高山宏にはまったのが運の尽きで、大学院浪人時代は英文学そっちのけで山口昌男や種村や澁澤から際限なく拡がる知の世界をふらふらしていた(この放浪癖は修士に入ってからも続き、そのせいで卒業が遅れた)。悩める知の探究者は『本の神話学』を一晩で一気読みをせよとは高山宏の至言。
ピーター・ゲイの名を知ったのも『本の神話学』で、「これを読んでいないと話にならない」と仰っていた富山先生は『快楽戦争―ブルジョワジーの経験』を、ルネサンスに興味を持った学生にはかならずこの本を薦めていた田中先生は『シュニッツラーの世紀―中流階級文化の成立1815‐1914』を訳している。
本書の魅力は、さまざまな都市についてなされる文学作品、映画、文化史の縦横無尽の引用にある。取り上げられるのは東京、ニューヨーク、ヴェネツィアプラハなどで、大部分は対話形式で書かれているが、前田愛との対談もある。熱を帯びた初期の著作と比することはできないが、自分の知らない面白いことがたくさんあると思わせてくれる山口の本はいつも愉しい。

青柳いづみこドビュッシー―想念のエクトプラズム』(中公文庫、2008年)
著者は現役ピアニストでありながらドビュッシー研究で博士号を取得し、軽妙なエッセイの書き手としても活躍する異彩。祖父は仏文学者の青柳瑞穂で、異端文学の偏愛者としても知る人ぞ知る存在である(『ユリイカ』や『幻想と怪奇』にも寄稿していた)。そんな人が「印象派ドビュッシー」という虚像を転覆すべく書いた評伝だから、面白くないわけがない。腰を据えてじっくりと読みたい本。

萱野稔人編『最新 日本言論知図』(東京書籍、2011年)
政治経済、医療、科学、教育、スポーツ、食、芸能・文化、サブカル……と、要する新聞やニュースのネタになるような150のトピックについて、代表的な論者の主張を図解した本。
現代日本社会を知るためにと思って買ったはいいが、記述の薄さと取り上げられる人物たちの小物さにゲンナリしてしまった。この汎用さが現代の主流文化なのだとある意味で感得し、ニュー・アカデミズムはよかったとつくづく思う。
馴染みのないトピックは読んでみるつもりではある。それにしても「言論」ということばを使う人たちは……。

池上英洋『かわいいルネサンス』(東京美術、2016年)
信頼できる美術史家の本なので購入。「かわいい」というテーマでルネサンス前後の作品を集めたオールカラーのビジュアル本。絵の解説はピンポイントかつ最小限に抑えられており、絵そのものを面白がってほしいというメッセージが伝わってくる。眺めていて幸福な気分になる。「坊や、いい飲みっぷりですね」というキャプションのついたグイド・レーニの『酔っぱらうバッカス』が最高。

Samuel P. Huntington, The Clash of Civilizations and the Remaking of the World Order (Touchstone, 1997)
国際とか名のつく学部にいたときに、退屈な授業でよく耳にした「文明の衝突」ということばにはうんざりしていた。読む必要はなかろうとずっと思ってきたのだが、原書を100円で見つけたときに学部時代が懐かしくなってしまったのか、魔が差して購入。いま、やはり読まなくてもいいんじゃないかと思いなおしている。文明論、国家論は文化を粗雑に扱う傾向があるので苦手だ。

木村陽二郎『原典による生命科学入門』(講談社学術文庫、1992年)
学術文庫の「原典による」シリーズは日本で数少ないオーソドックスなアンソロジーで何冊か手元にある。だが、この本は注文ミスで2冊同時に購入してしまった!
本書はアリストテレス、ハーヴェイ、デカルト、ベルナール、ラマルク、ダーウィン、メンデルらの原典からの抜粋を簡潔な解説とともに収録。科学書は19世紀中ごろあたりまでは教養のある読み手を想定して書かれており、実際に専門家以外の教養人にも読まれていた。だから昔の科学書はふつうに読めるし、同時代または後世の書き手との意外な照応を発見する愉しみがある。

長谷章久『江戸・東京歴史物語』(講談社学術文庫、2003年[原著1985年])
ここ一年ほどのあいだに何度か浅草に行く機会があったこともあり、歴史がわかれば東京はなかなか面白いのではないかと思うようになった。東京散歩なるものへの憧れもないわけではないので、江戸、東京関連の本をすこしずつ集めている(高山、種村論じるなかでいまいち馴染めなかった江戸というジャンルに親しみたいという気持ちもある)。
本書の著者は1918年生まれの国文学者。パラパラめくってみたかんじでは、読み物としても愉しめそうな一冊。

田辺保『フランス語はどんな言葉か』(講談社学術文庫、1997年[原書1969年]
フランス語をやろうと思って何度も挫折しているので、せめてフランス語に関するエッセイを読んで自分を慰めようと思うことがある。そのとき、フランス語にすこしでも親しむことができれば、次こそはフランス語学習が続くかもしれないという期待が一瞬心に浮かぶことはあるが、単語や活用表の暗記を避けては語学は身につかないことは、嫌というほど知っている。著者は1930年生まれのパスカルの専門家。

イアン・スチュアート『自然の中に隠された数学』(草思社、1996年[原著1995年])
チャールズ・サイフェ『異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』(ハヤカワ文庫NF、2008年[原著2000年]
IT業界に入ったので多少とも理系的な知についても知ったふうな口をきけるようになりたいと思い、一般向けの科学書や数学書を集め始めた。
前者は訳者あとがきによると、複雑系の理論への平易な入門書とのこと。なかなか気の利いた章題が多いのでいくつか拾っておく。「証明という名の織物」、「バイオリンからビデオへ」、「破れた対称性の美学」、「サイコロは神になれるか?」、「複雑系の単純さ」。帯をみると「カオスから複雑系まで」というコピーがあり、ニューアカを思い出す。いまは文系はふつう理系の本なんて読まないけれども、理解の程度や質は脇に置くとして、理系の概念を面白がっていた時代はやはり豊かだったなあと思う。
とかいいつつ、ハヤカワ文庫の「数理を愉しむ」シリーズが安定して良書を世に送り続けていることを考えると、たんに自分が無知なだけなのだとも思う。
『異端の数ゼロ』はゼロの観念史ともいうべき本で楽しみである。ちなみに、本家本元の『観念史事典』には「数」「文化史のなかの数学」、「無限」という項目はあったが、ゼロへの詳しい言及はなかった。(新版ではどうか知らないし高いから手に入りそうにない――と思ったらここで読めた。いちいち調べないけど)。

Andrea Levy, Every Light in the House Burnin' (Review, 1994)
オレンジ賞やウィットブレッド賞を受賞したSmall Island(2004)の作者のデビュー作。戦後まもない英国にジャマイカから移民した父と母のもとに生まれた末娘Angelaを語り手とした自伝的小説。
父が乗船したとされる「Empire Windrush」を名著Oxford Companion to Black British History (2010)で引き直した。ジャマイカの新聞広告に£28 10s.イングランド行き300名の乗船募集が掲載され、非常に多くの応募があったこと、1948年5月24日に492人の乗客と6人の密航者を乗せてにジャマイカを出港したこの船が6月22日にロンドン東のTilburyに到着したこと、カリプソの雄Lord Kitchenerが'London is the Place for Me'をこの船旅のなかで書いたこと、誤解されているがカリブからの移民が劇的に増えたのは1955~61年であったこと(51年までは年1000人以下だったが61年には66000人)などを知る。続けてKitchenerの項を引くと、Lodon is~の楽観主義は長く続かず、'My Landlady'(1952)や'If You're Not White, You're Black'(1953)など、次第に移民が抱える問題を歌詞に載せるようになったとある。
新しい本を買って以前買った本を読むとは変な話のように思えるが、読書がこういうふうに進むことは珍しくない。

ジョン・サザーランド『ヒースクリフは殺人犯か?』(みすず書房、1998年[原著1996年])
ヴィクトリア朝小説研究の泰斗が、オースティンからキプリングまで36篇の19世紀英文学作品について、些細だが重要な小説中の謎をテクスト自体からの傍証と文化史的知識を巧みに組み合わせて鮮やかな手つきで解読する。川口喬一の訳者あとがきが鋭い。ここで取り上げられている作品(すべてOxford World's Classicsとして刊行)はぜんぶ読まなきゃなあと思うが、トロロープが5作品も入っているから大変。そういえば、サザーランドは日本でいえば小池滋さんに当たるだろうか。

ユリイカ』「http://amzn.to/2ta9jnU=特集 スピルバーグ――映画の冒険は続く」(2008年7月号)
蓮實☓黒沢対談は以前抜粋で読んだが再読したい。加藤幹郎、石岡常治の論考も楽しみ。スピルバーグを好きになったことはないが、『ユリイカ』の映画に関する特集は見つけるとつい買ってしまう。

山田登世子メディア都市パリ』(ちくま学芸文庫、1995年[原著1991年])
元祖新聞王ジラルダン発行の大衆紙『プレス』に掲載された週刊コラム「パリ便り」(1836~48年)を補助線に、19世紀仏文学史の書き直しを試みた意欲作。読者に読みの快楽を与えようという気概が伝わってくるレトリカルな文体と構成を形容するには、前著の副題「誘惑のディスクール」ということばが相応しい。試しに本書における「パリ便り」の作者の紹介(28~36頁)を類似テーマを扱った標準的な論文と読み比べてみると、前者の圧倒的な筆力と洞察の鋭さと、後者のアカデミズムとフェミニズムに寄りかかった退屈さ、凡庸さとの対照がが浮き彫りになる。凡庸さといえば、以前鹿島茂とのバルザック対談本を読んだときには気づかなかったが、著者が蓮實的感性を持ち合わせていることには驚いた(本書解説も蓮實)。軽そうだと思って敬遠していたファッション本も読んでみようと思う。或る種の人にあっては軽さはラディカリズムをともなっている。

多少の漏れはあるが、先々週までに買った本のことをやっと書き終えた。
先週買った約30冊のことを書けるのはいつになるだろうか。

今日のひとこと:
「「美」のあらゆる相貌を、彼は意のままに結合する。或は次々に、或は同時に、要するに必要に応じて、彼は古典派、浪曼派、高踏派、象徴派、印象派、表現派、現実派、超現実派である。ここにあつては知性と感性、具体と抽象、特殊と普遍、――およそ想像し得る限りのあらゆる背反が、毫も互いに弱め合ふことなく、緊密不可分に統一され、調和されてゐる」
齋藤磯雄訳『ボオドレエル詩集』「後記」、p.207-8

買書日記

家じゅうが本だらけという話をすると、全部読んでいるのかとよく訊かれる。愚問である。
読書が好きなのではなく、読みたいと思う本を買うことが好きなのである。というわけで、最近買った本の覚え書き。

メダルト・ボス『夢―その現存在分析』(みすず書房、1970年[原著1953年])
フロイト学派の精神分析家による古典的な夢研究だと思っていたが、副題が示すとおり現象学の影響を受けて書かれた書物らしい。序論にはビンスワンガーやハイデガーの名前も。
第一部はフロイトからユング現象学までの夢理論概説。第二部は夢分析実践篇。第三部「夢みる人間の現存在可能性」は表題は難しそうだが、具体的な夢の挿話的な記述。「夢の中の夢についてひとは夢の中で分析することができるということ」なんていう洒落た章題も。

夢野久作夢野久作全集8』(ちくま文庫
ドグラ・マグラ』はすごかった。読むと頭がおかしくなるというような評価は完全なノンセンス。入念に構築されたポストモダンメタフィクションとして読み直すべき傑作。
本巻は主に『ドグラ・マグラ』刊行以前に発表された短篇を収録。解説は四方田犬彦。この全集はいずれ揃える。

若宮信晴『モダン・デザイン史―クラフツマンとデザイナー』(文化出版局、1985年)
図版が大きいのが嬉しい。が、図版出典がないのはどういうことか。記述は平板だが、要領よくまとめられているという印象(100頁以下)。

小沼純一監修『あたらしい教科書 音楽』(プチグラパブリッシング、2006年)
人名事典形式の20世紀音楽の通史。ブックデザインも語り口もゆるふわなので正直期待は薄いが、全12本あるコラムはなかなか面白そう。肩肘張らずに読めて、クラシックからポップスまで一通り20世紀音楽の流れがなんとなく掴めるという意味ではいいのかもしれない。

バーバラ.H.トレイスター『ルネサンスの魔術師』(晶文社、1993年[原著1984年])
高山紹介本。Amazonには書影がないのだが、黒地にマーロウ『フォースタス博士』の題扉をあしらった表紙がかっこよすぎる。原題Heavenly Necromancers: The Magician in English Renaissance Dramaもかっこいい。
副題のとおり、内容は英国ルネサンス演劇における魔術師表象の研究。第一章は思想的背景の概説で、紹介される魔術的な哲学者・思想家をランダムに拾ってみると、ベーコン、マグヌス、デラ・ポルタ、ブルーノ、アグリッパ、フィチーノパラケルスス、ジョン・ディーなどなど、おなじみの名前がずらり。第二章はチューダー朝、スチュワート朝時代のマイナーな作品群を狩猟し同時代の魔術師像を概観、第三~六章ではそれぞれグリーン『ベーコン修道士とバンゲイ修道士』、マーロウ『フォースタス博士』、チャップマン『ビュッシー・ダンボウ』、シェイクスピアテンペスト』を分析し、第七章で一時代あとのジェイムス朝の仮面劇における魔術師を取り上げる。註と書誌がなかなか愉しそう。謝辞にロザリー・コリーの名前あり。

風間賢二編『ヴィクトリア朝空想科学小説』(ちくま文庫
英だけでなく米も。マイナー作家の作品を収録しているのが嬉しい。Grant Allenなんて最近の研究書を捲るとよく言及されているのを見かけるが、実際読んだことないし。

ユリイカ』「特集 論文作法」(青土社、2004年3月号)
ちょっとした論文コンプレックスがあるからだろうか、読みはじめたらとまらなくなってしまった。
読むに値しない犯罪的に退屈な論文が量産されていることに大学の先生方もうんざりしている、というのは院生時代に雑談なんかで聞いたこと。まったくその通りだと思っていたが、実際に書くとなると難しいもので、レポートが思うように書けないストレスで10円ハゲができたりもした。
いい論文を書くコツなんてものは、「きちんと調べる」とか「主題についてとことん考ぬく」とか「人にわかるように書く」とか、至極当たり前のことしかないことを再認識しつつ、当たり前のことを当たり前にできるのが一流の研究者なのだと思ったり。

まだまだあるが眠いので寝る。と思ってたが今日は早番なので寝たら大変なことになるので、もう少し続ける。

D.H.ロレンス海とサルデーニャ』(晶文社、1993年[原著1921年])
ロンドンで一番仲のよかった友人がサルディーニャ出身だった。
ロレンスはちゃんと読んでいないのだけれども、『チャタレイ』を読んだときは、「やさしさ」についての物語がどうして猥褻とか過激とか言われるのだろうと思ったことだ。
のびやかな文章で綴られている本書は紀行文と呼ぶにふさわしい。訳は武藤さん。
ふと思ったが、旅行記/探検記/紀行文を分けるものは何だろうか?

北田暁大嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス、2005年)
この社会学者の本はじつは読んだことがないのだが、なんとなく優秀な人だと思っている。アイロニー/シニシズムという切り口から60年代以降の日本社会を論じた本であるらしい。ここ何年か興味を持っている80年代~90年代の記述が厚そうで、参照点もわりとなじみがあるものなので楽しみ。

渡邊昌美『異端審問』(講談社現代新書、1996年)
最近の新書は、漠然としたテーマのもと著者の退屈な意見表明に終始するものや、読者を侮ったほとんど内容のないエッセイがあまりに多いので、本書のような専門家が一般向けに書いた特定主題の概説書を手に取ると、すこし安心する。
で、異端審問だが、今のところ「モンティ・パイソン」の'Spanish Inquisition'くらいしか思い浮かばない。

今日のひとこと:
'O sweet fancy! let her loose;
Everything is spoilt by use'
John Keats, 'The Realm of Fancy' (1820)

稀なるかな、生きることは

6/13
まったく記憶にない。

6/14
毎週恒例のフットサル。

6/15
まったく記憶にないPart2。

6/16
まったく記憶にないPart3。平日俺は生きているのか。

6/17
ブックオフで買い物後、年に一度の高校OBのフットサル大会へ。
将来のことをすこし真剣に考えなくてはと思う。

6/18
中学の友人3人、その奥さん2人、子ども3人、高校の友人2人を招いて庭でBBQ。
13時から20時頃までとにかく食べ続けた。

6/19
前日夜に『ユリイカ』「文字」特集にはまって夜更かししたあげく、行きの電車で橋本治の『ちゃんと話すための敬語の本』を読んでいたため終日眠たかった。

6/20
前日夜に『ユリイカ』「ブックデザイン批判」特集にはまって夜更かしし、行きの電車でもNikolaus Pevsner, Pioneers of Modern Designを結構真剣に読んでいたが、わりと眠たくはなかった。ただし帰りは爆睡。
土日を除いて一週間の記憶がほとんど欠落していることに愕然としつつ本稿を執筆。

今日のひとこと:
'To live is the rarest thing in the world. Most people exist, that's all'.
「生きるということはこの世で最も稀なことである。ほとんどの人間はただ生存しているだけだから」
Oscar Wilde, The Soul of Man under Socialism (1891)

上記はDarwinの'struggle for existence'「生存競争」を踏まえてことば。
このエッセイと「芸術家としての批評家」は、当時隆盛を極めた(社会)ダーウィニズムに対する批評として読解可能だが、じつはWildeにおける'life'という概念は『種の起源』の結語と共鳴しているのではないか――というようなことを言おうとして収集がつかなくなった発表をしたことを思い出した。

'There is grandeur in this view of life, with its several powers, having been originally breathed into a few forms or into one; and that, whilst this planet has gone cycling on according to the fixed law of gravity, from so simple a beginning endless forms most beautiful and most wonderful have been, and are being, evolved.'
Charles Darwin, On the Origin of Species (1859)

日記風に

随分とさぼってしまった。人と会っているとき以外はほとんど寝ていたように思う。

5/31(水)
フットサル後、年甲斐もなくガストに行く。
22時を過ぎても店内は混雑していた。喫煙可、だらだら居座れるという理由以外でファミレスに行くというのがよくわからない。

6/1(木)
いまこうして書いていて、とても大切な日であったことを思い出した。
仕事なんてしちゃって、こんなくだらない大人になってごめん。雨は降っていなかったと思う。
もう干支が一回りしてしまった。

6/2(金)
仕事後元バイト先へ。辞めたやつ、卒業したやつも自然と集まってちょっとした同窓会。

6/3(土)
元バイト先で数カ月ぶりのお手伝い。店長(友達)からわりと新しく入った子の教育をお願いされていたが、なかなか忙しくて志半ばに。
どんな仕事やるにせよ、リラックスしつつ頭はフル回転というのが大事だと思う。

6/4(日)
朝からサッカー。試合後肉を買って行って元バイト先で焼いてもらった。美味。

6/5(月)
2010年以降の欧文書体の変遷に触れている本というリクエストあり。応えることはできなかったけれども、久々に知的好奇心を刺激された。
変遷も何もこのポストモダン時代には様式の混淆しかないだろうと思いつつ、音楽を考えてみればごく限られたものとはいえムーブメントのようなものはあるわけで(GAGA全盛期の80'sリバイバルから90'sリバイバルへとなめらかに移行してきた印象)。
しかしちょっと調べているうちに、やはり18~19世紀あたりが気になり始める。
Typographyを押さえておかないと、かの時代のパンフレットや広告、定期刊行物を面白く読む/見ることはできないことに今になって気づく。

ashtongraphicdesign.blogspot.jp

Dickens関連で面白そうな本を見つけたのでメモ。

今日のひとこと
「どんな芸術作品も割安にやってのけた犯罪である」
アドルノ『ミニマ・モラリア』p.161

プーの文体

昨日本の山を延々と運び続けたせいで腰が痛い。炊飯器からご飯をよそおうとしてちょっと腰をかがめただけでギックリ腰になったことがある腰老人には、本の整理はつねに命懸けである。

 

帰り道『プー横丁の家』をひさびさにぱらぱらとめくる。あらためて読んでみると、プーの文体の特徴が、parataxisと呼ばれる、文章を並列的に連ねていくスタイルにあることに思い当たる。

アウエルバッハが『ミメーシス』のどこかでこのparataxisを詳しく分析していたことを思い出した。ちょっと調べてみて『ローランの歌』を取り上げた第5章だとわかったが、原典を書き写してあれこれ考える元気はないのでいつかまたの機会に。

 

眠たいのもあるけど、iPhoneで書いているとあまり筆がすすまないな。

 

そういえば今日のハイライトは、Amazonから同じ本が2冊届いたこと。これまでも持っていることを失念して同じ本を買ってしまったことはあるけど、同時には初めて。

 

おやすみなさい。

 

今日のひとこと

"in a what-shall-we-do-now kind of way"

「さてどうしたものか的なかんじで」

The House at Pooh Corner, p.14

 

本の整理がしたい

たまに本の整理をしようとする。

要は二部屋ある空き部屋に自室やキッチンや居間から本を移動させるだけなのだが、今日はなかなかラディカルにやった。

これまでも居間に置く本は映画、音楽関係と一応は決めており、新書、実用書は全部空き部屋にという方向でやってきたのだが、今日は思い切ってフィクションを自室に置かないという決心をしたのです。

で、あらかた運び尽くしてみて、様々なジャンルの単行本が、もう本当に無秩序に積み重ねられていることにあらためて気づいた。

そんなわけで、うず高く積まれる本の山から、美術史関係の本、歴史学プロパーの本(文化史との線引に悩みつつ)、伝記の類をそれぞれ引っ張り出して、とりあえず積んでみた。

積んでみたところで疲れ果てて今日の作業は終わったのだが、空き部屋のスペースも少なくなってきて、さてこれからどうしよう。結局また雑多な本が集められ、それらが無秩序に積み上げられていくことになるのだろうが、人生に一度は本の整理なるものを完遂したいと思っている。

ちなみに現在別室にあるフィクションや新書は、それらをまたジャンル別に分類・整理しようとするその道半ばで力尽き、乱雑に積み上げられていることは言うまでもない。

日記をまた書き始めるということ

今まで日記やブログを綴ろうと試みたことは幾度となくあって、そのたびに挫折している。

ごくたまに自分が過去に書いた文章を読むことがあると、なかなかいいことを書いているではないかと感心したり、こんなこともあったかと単純に懐かしくなったりして、今度こそはと思い立って、それまで利用していなかった何らかのサービスを使って書き始めてはみるものの、続いたためしがない。

だいたいにおいて日記再挑戦時の最初の投稿では、今までは続かなかったけど今度こそは!という通俗的な決意表明が記されているが、自分を鼓舞してもまったく効果がないことはもうわかっているので、避ける。

がしかし、こういう決意表明を避けたぐにゃぐにゃとした初投稿も過去に何度かしているのであり、その際もやはりと言うべきか結局日記は続かなかったので、やはり今回も続かないでしょう。

といいつつも、続いたらいいなあ、などと思ってまた日記を始めてみたりする。